小姐的不夜城故事 -2ページ目

社会主義再考 (1)

社会主義に未来はあるのか?中国はもう一度深く考えてみる必要があるかもしれません。どうしてこうゆう考えになったかというと、まだ社会主義に夢想し、希望を膨らませていた時代からこの国を見てきて、一度平らに等しく貧しかった社会が、欲望というパンドラの箱を開けた途端に恐るべきスピードで階級社会に逆戻りしていく過程を目の当たりにしてきたからです。


我々が聞きかじった社会主義は個人が富を所有しない世界です。富を生む事に生きがいを感じて生活してきた資本主義側の人間からは、第一に‘無理’という言葉しか出てこないほど単純な社会です。人が欲望無しに生きていく事が出来ないのは、日本のようにこれほど国も個人も富を持った国民が自殺によって死んでいく事を考えると、人が生きていく為の動機は貧富によって左右されるものでない事がよく分かります。


そこで空想的な社会主義者が考えた方法は更なる破壊の実践でした。個人の富を破壊する事によって個人は等しく貧しくなる事で個人の欲望の芽を奪い取るという手段を取ってきました。スタートした期間はそれでもよかったのかもしれませんが、人間はそれほど簡単に変われるものではありません。やがて貧しい中にも細分化された階級が生まれ、人々が協力して生産し平等な富を分配する社会を作ろうという淡い希望はすぐに絶望へと変わっていったのです。


その絶望から人々を救ったのは皮肉にも戦争という破壊行為でした。戦争という100%非生産的な略奪行為が人々の閉塞的な心理を高揚させる唯一の手段として現れました。この戦争という行為は麻薬を打っている状態と同じようなもので、自分の命を引き換えにしても欲望を満たす最悪の行為です。しかし人間にとって退屈を覚える事は自分の存在価値を完全に否定されたような錯覚を覚えます。こんな時に必要なもの、それが破壊という行為なのです。


そして冷戦が終わったあと、社会主義国である中国が選択したのが、世界に対する経済での宣戦布告でした。そしてこの選択は人々に欲望を目覚めさせ、中国自身がその麻薬に蝕まれつつあるのです。


To be continue

子供たちの為に

皆様、明けましておめでとうございます。


と言っても中国は旧正月を過ごすので新年とういう気分ではないのですが…。会社も明日から始まる所が多いかと思いますが、皆様の今年1年が実り多い事をお祈りいたします。


これまで中国の暗い話ばかり書いてきたのですが、全体的に見るとやはり経済に活気があり、かえって日本の方が暗い雰囲気で閉塞感があるような気がします。日本も景気が良くなってきてこれからは明るい方向に向かいそうな感じですが、日本の場合は一筋縄では行かない根幹の問題(少子化、年金、収入格差など)が山積しているので未来に対する気持ちはどうしても暗くなってしまう様です。


特に将来を背負う子供に対しては明るい希望を見せてあげないとダメだと思うのですが、これだけ個々の経済状況の格差がはっきりしてくると、自分たちの子供にはただ学校に行って、勉強して、就職して、結婚して、みたいな節目を無事に通過する為のサポートだけでは無く、今彼らが置かれているポジションを明確にしてあげる事が重要かと思います。子供なりに今の自分の置かれている現状を認識させて、このポジションに行くにはこうした方が良い、もう1段上のポジションに行くにはこうした方が良いと具体的にアドバイスして最終的には本人の意思決定に委ねるぐらいにしないと、毎日だらだらと生活していくだけでは多くの子供がかなり不安な気持ちで生活しているのではないかと思います。


では中国の子供たちはどうなのか。はっきり言って日本より更に格差がある社会に育っている中国の子供たちは、日本の子供たちより数倍ハングリー精神が旺盛だと思います。生きることに対しても貪欲ですし、大人が当てにならず嘘つきである事も見抜いているので、社会の中でどうすれば自分が幸せになれるのか(少々自己中的な考えも有りますが)日本の子供たちより真剣に考えている様に思います。


去年は公害問題が中国各地で噴出しましたが、この公害問題の処理の仕方が今後の中国の行く末を占う大きなファクターになると思います。これを今の大人が真剣に将来を見据えて改善していけるかどうか、経済を停滞させてでも真剣に向き合わないと中国の平均寿命はどんどん短くなっていく事でしょう。今中国に住んでいる我々も硫酸の雨(酸性雨と言わずはっきりと硫酸雨である事を謳ったほうが良いかと思います)を浴びながら生活していますが、こんな大気の中で長生きできるとは到底思えません(すごい医学進歩があれば別ですが、進歩があっても生き残るのはお金の有るものだけでしょうし・・・)。


日本が真剣に中国に協力するなら、この環境の部分しかないと思います。日本の民間企業も取り込んで、例えば公害対策をしている中国企業以外からは日本の如何なる商品も輸入しないなど、ルール付けをして、例え短期的に厳しい状況に陥っても、長期的に見て日中双方が幸せに暮らせる環境を今の子供たちの為に準備してあげる事が一番大事な様な気がします。

青天の霹靂

   

河南省商丘市市街          王保存市長(悪代官)   商丘公交公司のバス


河南省の東部に位置する商丘市、河南省の中核都市の一つですが、ここで公営のバス会社に絡んだ不正が起きているようです。この会社は商丘公交公司、市内を運行するバス会社なのですが、この会社が突然12月に入って公営から私営会社に転換すると社員に通告があり、社員に然したる説明も無いままに市の批准を通過し、ここの総経理であった黄玉波氏が360万元を出資して51%の株を握り私有化してしまう事態になっているようです。


問題は余りにも唐突に私営案が出てきて、社員の知らないうちに政府が批准してしまう事態です。こうした事態は今中国全土で起こっている事だと思うのですが、バスの運転手や一般職員は月に400元足らずの給料なのに、国営公司のトップの黄玉波氏が360万元ものお金を出資できたこと事態が不正蓄財をしていた証拠であるのに、そのお金の源泉は一切問わずに私有化を許してしまう、それに一般社員の多くは憤りを感じています。


交通機関は公共の道具といえます。それを私物化し、会社の都合で値段を自由に変更できる私営化は社会生活に大きな影響があり、最終的には一般市民の家計を直撃します。それを政府がらみで強引に私営化を進めれば、社員のみならず一般市民も巻き込んだ反対運動が湧き上がる事必至です。


国有財産を強奪するやり口で、今の共産党の地方幹部はやりたい放題です。その鬱積が国民に溜まって来ているのは彼らも分かっているので、後は都合良く合法化で儲けたお金を海外に持って逃げれば良いやと思っているので性質が悪いです。

上海のユダヤ人

上海生活を送るユダヤ人                上海のユダヤ難民故居


第二次世界大戦はドイツの突出した軍事行動が引き起こした恐怖の連鎖が印象に残りました。特に人種間に於ける憎しみが爆発し、ドイツがユダヤ人に対して行った残虐な行為は人類の永遠の汚点と言えるでしょう。そんな中でも中国とユダヤ人には不思議な因縁が有ります。そしてその因縁は中国の対アメリカ政策にも重要な役割を果たしてきたと言えます。


第二次世界大戦中上海には約5万人のユダヤ人が生活していました。そしてこの上海こそが彼らの約束された地に向かう最後のベースキャンプだったのです。当時世界中で戦いが行われる中、上海は色々な国の疎開地があり、返って不思議な平和的均衡が保たれ、この地に滞在したユダヤ人は終戦までナチスの迫害を受ける事無く無事に生活し、戦後は多くの人がイスラエル建設の為にパレスチナの地に渡り、その多くがイスラエル建国に血と汗を流しました。


そしてイスラエルは1948年5月14日に建国したのですが、それから翌年1949年10月1日中華人民共和国が成立し、その後3ヵ月後の1950年1月9日、もうすぐ朝鮮戦争の始まる怪しい時期にイスラエルは共産国である中国を国家として承認するのです。これはアメリカの絶大な援助で建国した国としては尋常ではないのですが、彼らユダヤ人にとって中国、そして上海という地が如何にイスラエル建国に重要なポジションを占めていたかがよく分かります。


そして冷戦時代が始まり、中国とイスラエルもまたその冷戦の枠組みの為、1992年1月24日まで42年の長い間国交が樹立できなかったのですが、その間も両国の関係は依然友好的であり、例えば1976年天津の近く唐山で大地震が起きた時、イスラエルは真っ先に当時のお金で1億ドルを援助する事を決めました。また中国の軍事開発には数多くのイスラエルの情報提供が有ったと専門家が認めています。そして最近ではイスラエルから哨戒機を4機商談がアメリカの介入でキャンセルされる話があったのですが、裏では多くのキャンセル料と軍事技術供与が約束されたと言われています。


このように余り普段関係がないように見える両国、実はとても深い絆とシンパシーで結ばれているようです。そしてその絆がアメリカの対中政策にも大きな影響力を持っている事は間違いないようです。

大連開発区ストライキの行方

今年中国全土で起こった反日運動を受けて、9月に沸き起こった大連の日系企業ストライキ事件、多くは政府の介入により沈静化し、給与を若干上げる事で決着したように見えますが、3万人以上の人間が企業の枠組みを超え集団でストライキを断行した事は、政府にとっても頭の痛い話だったと思います。


特に大連でこの事件が起きた事は中国を良く知る人たちにとって感慨深い事件だったと思います。それはこの地がかつて中国改革開放の先頭を走った任仲夷氏が遼寧省の書記長を務め、彼が最初に鄧小平に経済特区を勧めた地が大連だったのです。

任仲夷氏、今年11月15日没      鄧小平の懐刀です

享年92歳



その後彼は広東省に人事異動され大連経済特区は保留され、広東省には4つの経済特区が設立されましたが、それは彼が鄧小平の絶大な信頼を得ていた事と、自身の強靭な指導力の賜物で、今の中国の基礎を作り上げたといっても過言ではないでしょう。彼の反骨精神は文革時代に毛沢東と4人組を批判し獄中で亡くなった多くの同志の名誉回復に努めると共に鄧小平に対しても直言、批判できる存在で、共産党の革命精神を具現化できる闘志の1人だったのです。


その彼がこれからの中国を見据え、自分の行った政策に矛盾を覚え、海南島を政治特区にし、選挙による代表選出と真の民主政策を実験する事まで考えていたのです。そして今回彼の原点とも言える大連で党の指導を無視してストライキが行われた事は実に皮肉な結果と言えるでしょう。


国が富める事を優先して行われた改革開放の政策が曲がり角に来ている事は誰もが認める所です。しかし中国の対外貿易に依存する体質(貿易依存率70%近く、日本でも30%以下)、消費率の低さ(統計では15%の富裕層が85%の貯蓄を握っていると言われ庶民の消費志向はまだまだ低い)、これらを考えると今の政策をすぐに転換できる状態ではないので今は如何に国民を騙すかがポイントで、今の政府はかなり難しい舵取りを要求されます。


人件費のコストが上がれば海外の投資は萎んでしまいます。しかし中国で莫大な利益を生み出す海外企業に働く人間は自己矛盾に陥っています。このバランスを上手く取らないと中国全土でストライキ地獄に陥る可能性が有ります。



汕尾市紅海湾開発区の公安発砲事件(12.6事件)

広東省の汕尾市でまたも開発に絡んだ農民の暴動が起き、多くの方が武装警察の発砲によって命を落とす事態になりました。海外メディアが取り上げた事もあり、中央政府も公式に暴動を認め、警察の関係者を拘束しているとの報道ですが、中国国内のメディアは報道が極端に少ないばかりでなく、あくまで農民の不法行為が引き起こした事件として、簡単に処理しています。



広東省の村の役人や公安関係者の悪事の数々は留まる事が有りません。表に出ていない事件がネットなどで告発されています。今回の事件もすぐに政府はネットで規制をかけこの暴動に関する書き込みは全て閲覧不可にしています。このように真相がはっきりせず、海外で警官が市民に発砲したという事だけクローズアップされてしまうと、いかにも政府が悪いような印象だけが残ってしまう事はあまり良い事ではない様に思います。


実は今広州にいるのですが、アテンドしてくれている香港人の方から、今の広東省はほんとに治安が悪いから気をつけろと釘を刺されました。レストランで携帯電話をテーブルに置いているだけで目の前で携帯電話を奪って走って逃げていく泥棒がいるとか、堂々と悪事を働く輩が後を絶たないそうなのです。交通ルールもぜんぜん守らないし酷いもんだと嘆いておられました。私が広東エリアをうろうろしていた時より確実に治安が悪化している印象を受けました。


昔から広東省は中央にとってあまり言うことを聞かない目の上のたんこぶみたいな存在でした。それが97年の香港返還によって、更に加速したような気がします。香港人も仕事面で確実に食い込んでいますし、香港の悪い面がかなり輸入され、統制が困難になっているのかもしれません。


いずれにしても広東は中央にとってはこれからますます扱いにくい存在になっていくでしょう。お偉いさんが頻繁にご機嫌取りに来ているご時世では益々付け上がるような気がするのですが。

都市の顔

今年二回目のインドに行ってきました。半年でも結構変わっているので中国並みに開発のスピードが上がってきている様です。今回は前回のインドカレー地獄の教訓もあり朝食はホテルのビュッフェ、昼食はカレー、夕食は中華と工夫して何とかやり過ごしました。ほんと朝昼晩とカレーばかりでは身が持ちません。


そんな夕食の中華レストラン、結構どの店も流行っていて、おしゃれな店も有りました。働いている人の顔は確かに中国系の感じで、中国語で喋りかけてみると、どうもインドの北の方、ネパールやブータンの国境沿いから出稼ぎに出てきているようで、インドの他民族性を改めて思い知らされました。確かにあれだけ広い国だし、人口も多いし、この国が動き出すと中国と同じ様にスピードに加速がついて一部の地域はあっという間に先進国並みになりそうです。


しかし中国とも違い、今でも階級性の色が濃く、言語一つ、宗教一つとっても統一感が無く、交通の秩序を見ていても、あの自分本位が引き起こす渋滞を見ていると、まだまだ先進大国になるには時間がかかるような気もしてきます。まずはインフラを徹底的に整備する事から始まるのかなという感じです。


その後タイのバンコクで一服して上海に戻ったのですが、バンコクも高速網が整備され、交通は以前の様な渋滞のストレスも無く、三輪オートバイも少なくなっていて快適な街になっていました。ビルも近代的な感じなっていて、この10年の間に外観よりも、内面的なものが成熟したような気がしました。


夜の街にも繰り出したのですが、相変わらずタニヤなどは日本人で埋め尽くされ、ひな壇のソープは少しさびれた感じでしたが、高度発展期を通り抜け大人の街になった感じがあり、夜の街も以前のようにガツガツとした感じではなく余裕が感じられました。


インドとの対比でバンコクの発展を見ていると、バンコクの発展ぶりに感心したのですが、そこから上海に帰って市内の上海の高層ビル群を見ていると、東京やニューヨークとも違った未来都市のようで、まだまだ新たに開発している風景を見ていると、この街はこの先どんな発展の仕方をするのかなと感慨深く見入ってしまいました。

愛は永遠なり

11月23日に浙江省杭州市で、あるカップルの結婚登録が行われました。新郎は趙波さん63歳、新婦は石小琳さん29歳、34歳も歳の離れたカップルの誕生でした。このカップルが他のカップルと違う点は、新郎の趙波さん、2000年に687万元の詐欺事件で逮捕され、無期懲役の判決を受け、現在浙江省の刑務所の住人であるという事です。

登録する二人                         ひと時の幸せ


この新婦の石小琳さん、もともと上海の虹橋机場賓館で働いていたのですが、10年前まだ19歳の時に趙波さんに見初められ、それから彼の秘書として働き出し、2年後に同居する仲となりました。当時趙波さんも離婚して独り者でしたので自然の成り行きと言えるでしょう。


そして2000年詐欺事件が発覚、二人とも刑務所へ入る事となり、趙波さんは無期懲役、石小琳さんは5年間の懲役の判決が下されました。そして石小琳さんは5年後刑務所から出所して、彼の刑務所に面会に通い続け、どうしても趙波さんと結婚したいという思いに駆られ、関係機関に掛け合った結果今回の結婚登録にこぎつけました。


当日は刑務官や公安が見守る中登録が行われたようですが、石小琳さんの表情は終始晴れやかな表情だったようで、普通の結婚生活を送ることは叶いませんが、妻としてこれからも趙波さんを応援していく事でしょう。


趙波さん刑務所での健全な生活態度が認められ、無期懲役から18年9ヶ月の刑に減刑されました。あと17年の刑期を終えれば新婚生活が送れる事となりそうです。今63歳の趙波さん80歳で晴れて彼女と一緒に暮らせる日を待ち望んでいる事でしょう。

ハルピンの断水

  

水だけじゃなくジュースを買い求めるハルピン市民    水大量に買ってます

昨日21日の4時から黒龍江省ハルピンで断水が続いています。政府からは断水の原因は知らされず市民はただただ復旧するのを待っているのみです。今回の断水は11月13日13時40分頃に吉林省吉林市で起きた中国石油吉林石化公司の爆発事故に関連しているというのがもっぱらの噂です。

ここまでひどいの? 爆発直後の吉林市

この中国石油吉林石化公司ではアンニンという化学物質を作っていたとの事ですが、会社が松花江という川に面していて、その川にアンニンが流入したかもしれないということで水質調査の為に断水しているらしいのです。


更にこの断水について政府が報道管制を引いてしまったので、市民の憶測が憶測を呼び一時は水を買い求める市民でスーパーなどがパニック状態になり、蒸留水が5倍の値段で取引される事態まで起こりました。

ここが中国の怖い所だと思います。いまの鳥インフルエンザも本当のところどうなっているのか全く分からないですし、一部ではエボラ出血熱も中国で確認されたと噂が広まりました。


今のネット社会で報道管制を引くのは現実的に不可能です。必ず外部に漏れるのであれば、最初からきちんと説明して国民の安全を図るのが政府の義務だと思います。今回の断水SARSで露呈した危機管理の弱点を更に確認させる行為であるのと同時に、国際社会に対して中国の信用を地に落とす行為です。

追記

22日夕刻、黒龍江省の省長がテレビに現れ突然断水についての説明を始めました。断水から約24時間後の出来事で、ご丁寧に22日午後8時より4日間断水すると前日の断水騒ぎには触れずじまいでした。これが疫病なら命取りなのですが‥‥‥。

素敵な女性

河北省の曲陽県は2000年に渡って中国の彫刻界では有名な所です。多くの有名な彫刻家を輩出しており、今回主人公の女性、楊普会さん43歳も、元時代の著名彫刻家楊の後代で彼女自身彫刻家であり河北省曲陽県石曲聯営彫刻工場の副工場長という重職についておられます。


その彼女が文革を乗り越え、貧しかった子供時代、父親の手ほどきで彫刻を覚え、今では160名もの彫刻家を抱える工場の現場責任者になって、世界を相手に商売をする身になって、彫刻では誰にも負けない自負を持ちながら、初めて自分が読み書きも出来ない事に‘はた’と気付き、一念発起で小学1年から学校で勉強を始めたというお話です。

彼女は今5~6才の同級生と共に、読み書きや算数など1から学ぶ毎日で、仕事は夫に任せて毎日勉強に励んでいます。最終的には企業の経営学を学ぶまで勉強を続け、その後会社に復帰したいという事です。


実際言うのは簡単ですが地位も名誉も有る人が40歳を過ぎて子供たちと一緒に小学校に通うのはなかなか出来ることではないと思います。逆に言うと自分に自信の持てるものが有る事でこの程度の事は大した事に思わないのかもしれません。


こうゆう人を見ると中国のパワーを感じてしまいます。今の日本人は良くも悪くも幼い時にその人間の90%以上が決定付けられる社会です。そしてそれに嫌気をさしている方も多いかと思います。このパワーだけは日本人の私も見習いたいなと思います。