社会主義再考 (1) | 小姐的不夜城故事

社会主義再考 (1)

社会主義に未来はあるのか?中国はもう一度深く考えてみる必要があるかもしれません。どうしてこうゆう考えになったかというと、まだ社会主義に夢想し、希望を膨らませていた時代からこの国を見てきて、一度平らに等しく貧しかった社会が、欲望というパンドラの箱を開けた途端に恐るべきスピードで階級社会に逆戻りしていく過程を目の当たりにしてきたからです。


我々が聞きかじった社会主義は個人が富を所有しない世界です。富を生む事に生きがいを感じて生活してきた資本主義側の人間からは、第一に‘無理’という言葉しか出てこないほど単純な社会です。人が欲望無しに生きていく事が出来ないのは、日本のようにこれほど国も個人も富を持った国民が自殺によって死んでいく事を考えると、人が生きていく為の動機は貧富によって左右されるものでない事がよく分かります。


そこで空想的な社会主義者が考えた方法は更なる破壊の実践でした。個人の富を破壊する事によって個人は等しく貧しくなる事で個人の欲望の芽を奪い取るという手段を取ってきました。スタートした期間はそれでもよかったのかもしれませんが、人間はそれほど簡単に変われるものではありません。やがて貧しい中にも細分化された階級が生まれ、人々が協力して生産し平等な富を分配する社会を作ろうという淡い希望はすぐに絶望へと変わっていったのです。


その絶望から人々を救ったのは皮肉にも戦争という破壊行為でした。戦争という100%非生産的な略奪行為が人々の閉塞的な心理を高揚させる唯一の手段として現れました。この戦争という行為は麻薬を打っている状態と同じようなもので、自分の命を引き換えにしても欲望を満たす最悪の行為です。しかし人間にとって退屈を覚える事は自分の存在価値を完全に否定されたような錯覚を覚えます。こんな時に必要なもの、それが破壊という行為なのです。


そして冷戦が終わったあと、社会主義国である中国が選択したのが、世界に対する経済での宣戦布告でした。そしてこの選択は人々に欲望を目覚めさせ、中国自身がその麻薬に蝕まれつつあるのです。


To be continue