小姐的不夜城故事 -6ページ目

すごい男


中国で米ドル換算4億8500万ドル(約500億円)を騙し取った銀行員がいます。広東省の中国銀行開平支店の支店長余振東と言う男で、銀行の金をどんどん架空の会社の貸付、それをまた海外にどんどん送金しこれだけ巨額の金を奪い取った後、偽者香港人に成りすまし、カナダ経由でアメリカに入りラスベガスで生活、2002年12月19日にアメリカで逮捕され、2004年4月16日に中国に移されました。


しかし500億円ですよ、500億円!中国の貧困農村の一世帯収入は年収約25,000円、これから考えると、200万世帯、約1000万人近い農村住人の年間所得と変わらない金額を奪い取った計算になります。こんな金どうして奪えるのって感じです。


彼らが香港に預金していた金は約150億円、これは香港政府により凍結されましたが、残りの350億円は行方さえ分かりません。考えるに彼らのグループが何人いたかは分からないのですが、残りの金の多くは政府高官のポケットマネーになったと考えるのが普通ではないでしょうか。


実際、首謀犯の3名はアメリカで逮捕され、米中の司法取引により余振東は最高12年間の刑で釈放されるとなっています。もし中国で捕まれば即死刑でしょう。これは背景に中央政府の汚職事件に発展するのを恐れた結果だと考えられます。彼らの金が政府高官に流れているのは確実です。更に余振東はFBIにすべての金のルートをゲロしている可能性が有り、本来ならば中国側が先に捕獲した上で抹殺したかった所を、CIAFBIが先に捕獲したので返って手が出せなくなり、更に汚職の内容を握られている人たちは、アメリカさんに尻尾を振らなければならない状況です。


こんな状況で9月に米中会談が有りますが、アメリカからはこの件も小出しにちくちくと中国を苛める事でしょう。アメリカに魂を売り渡した男余振東。この事件もし中国共産党政府が倒れた時には映画化されると思います。実は映画並みにすごい緊迫した内容だったと思います。

農村改革

中国は沿岸部の開発によって約700万ヘクタールの農地をこの7年間の間に失ったとの報告が有ります。これはもともと農業に適した揚子江デルタや珠江デルタを中心に開発が進められ農地が工業地に転換されてきた結果です。このまま開発を進めれば中国13億人の自給は保てない事は明白であり、大食料輸入国に転換することでしょう。


中国が自ら食べ物を作らなくなる事は、日本など食品の6割以上を海外からの輸入に頼っている国にとって大きな脅威となります。現にベトナムからは米や果物をどんどん輸入し始めていますし、国際的な穀物の市場価格も中国の動向を見ながら動いているのが現状です。


更に怖いのは農地を失った人たちの処遇です。開発により潤う人たちは政府の役人と開発業者と外資の会社で、農民にはスズメの涙ほどの保障が与えられるだけです。この人たちは借金だけを抱え、自分たちの生きる糧を強制的に奪われ、仕方なく最低の条件で民工として都市に出稼ぎに来るのです。


上海など大都市でも建設現場の多くはこうした土地を奪われ出稼ぎにきた人たちです。彼らは自分たちの立てたマンションなどが、今の彼らの給料では250年間働いてやっと買える金額です。こうして都会に出てきて、都市部の快適生活を垣間見て圧倒されます。都市の人間は家にはエアコンが各部屋に入り、パソコン、車も有り、給料は自分たちの田舎の5~6倍は稼いでいます。


こうした農民の鬱積はあと10年~15年我慢できるかもしれません。今の出稼ぎの主力は30代から40代が主流で、彼らにとってはこんな待遇でも過去の改革開放前の記憶が強すぎて、あの当時よりはましだとごまかしが効くからです。ところが今の10代にはそれは通用しないでしょう、彼らは負け組み意識で現状打開を必死で求めてくるでしょう。


それまでに中国は農民対策に全力を挙げて取り組む必要が有ります。彼らにお金を還流させないとまたしても暴動の嵐が吹き荒れる事でしょう。

官僚天国

日本の官僚や公務員もよく揶揄され、メディアなどで攻撃されていますが、中国での官僚の待遇は少し異常なほど優遇されています。中国でも特に貧しい内陸の省にも、例えば陜西省では83を数える県(日本でいう市の様な行政単位)が有りますが、一人当たりのGDPが600元というようなこの貧しい地域で県が官僚に使っているお金は異常な金額です。


以下は1県の官僚が1年で使う経費算出


官僚の総数(県の副局長以上の数)


県共産党委員会書記    1名

副書記             5名

常任委員           6名

県長              1名

副県長             8名

県長補佐           3名

人民代表主任        1名

人民代表書記        1名

人民代表副書記       4名

政治協商委員主任     1名

政治協商委員書記     1名

政治協商委員副主任    3名

検察院長           1名

検察院書記          1名

副検察院長          3名

法院長             1名

法院書記           1名

副法院長           5名


合計             47名


この人数で受けている待遇を年間で計算すると


公用車           1台    4万元 (1台40万元を十年使用で計算)

運転手           1名    1万元

ガソリン代など車の維持費      2万元

携帯などの電話代           2万元

出張経費                 5万元

その他雑費               1万元

 

合計                   15万元/人


総合計 47人で           705万元


これらはただ単に国家の財政で賄われる部分で、彼らは利権を持っているので、これに普段の飲み食いや夜の接待、業者からの賄賂などが入ってきます。705万元を600元で割り返すと、なんと47人が11,750人分のGDP金額を使っている計算になります。これを日本に当てはめると、例えば国民1人あたりGDP350万円に対して250倍の8億7500万円の経費を1人の官僚が使っている事になります。こんな単純計算は意味が無いかもしれませんが、感覚としてはすごい経費が使われている計算になっています。


最も中国だけがこの様に官僚天国な訳ではなく、世界中の発展途上国は一様に持っている問題ではありますが、中国は沿岸部と内陸部に余りにも経済格差がつきすぎて、その上官僚の待遇だけが統一されているので、貧しい地域の国民には耐え難い不満となっているようです。


上海の田舎の某所にも、上海市政府御用達の接待専用クラブが有ります。今の中央政府の偉いサンもよく利用されているようです。そこは一戸建ての住宅が並ぶ高級住宅地区で、その中で地方の出張官僚をもてなしているとか。我々には縁の無い話ですが、絶世の上海美人が多く待機していると聞き及びます。官官接待もほどほどにしないとほんとやばいと思うのですが。

農民の苦悩

経済の面白さと怖さはバブルに有ると言えます。バブルは実需以外の膨らんだ部分の取引ですから、実態の無いものに価値をつけていく作業と言えます。そしてそれが騙し合いの中で価値だけ上がって行き最後にババを掴ないようにするゲームです。我々はすでに生活上最低限必要な物は手に入れているので、後はいかに実需が有る様に見せかけ、付加価値を付け自分の資産ポイントを増やし続けられるかというゲームをしていると言えます


ここの所上海でマンションの値段がどんどん下がっています。この2年で倍以上に上がった値段が2割から3割落ちてきています。それより気になるのがあれほど乱立していた不動産仲介業者がどんどん店じまいしてしまい、中古物件の売り買いがストップしているのがよく分かります。今後も新規の住宅供給は後を絶たないのですが、デベロッパーも新規の売りについてはストップする所が出始めました。こんな状況だけを見ているとバブルが弾ける前夜といった感じではないでしょうか。


実需としての住宅供給はすでに一段落してきたのかもしれません。今までマンション転がしをしてきて手持ち資金の豊富な一部投資家は今I Tインフラを完備したオフィスへの投資や店舗向け物件への投資に切り替え、家賃での安定収入を狙っています。これにより今後不労所得で安定した生活を送る人たちと資産を持たない無産階級の人たちとの生活格差がもっと広がって行くのは否めないかと思います。今の中国は共産主義の大原則が崩れていく入り口に立っていると言えるでしょう。




そしてその中でもバブル経済とも関係なく社会の一番底辺にいる農民の怒りは相当なものだと想像できます。


1 所有権の問題

共産主義の国家では天然資源や社会インフラ等はすべて国家に属す事が原則です。しかしそれを開発する権利は大資本の企業や資本家に許され、実際の開発は農民の低賃金によって行われ、企業や資本家は莫大な利益を上げています。つまり国が潤いその利益が国民に行き渡るのではなく、一部の人間に独占され集約していく矛盾が生じています。それとは反対に農民たちが自分たちの生活の為に電話や電気などお金を出し合って引っ張って来ても、そのインフラは完成後すべて国家が管理する事となります。これでは農民は浮かばれません。


2 財政配分の問題

政府は国家財政を優先的に貧困地域に振り向けると言っていますが、実際に農村では農民たちが自分たちで道を作り、電気を引き、学校を作り、すべて自分たちで行っています。しかし都市部では道路も、電気も、電話も、学校もすべて国の税金で賄われています。地方に向けているというお金は地方の都市に向いていて、決して農村までには向いていない現状です。


3 社会保障の問題

現在中国の社会保障制度は農民戸籍の人間には適用されません。彼らは将来に対して全く何の保障も受けられません。また農民に土地の請負制度を実施していますが、今後生まれてくる子供たちに対して分配される保障は全く有りません。


4 金融制度の問題

農民は銀行でお金を借りる事が出来ません。彼らには資産と呼べるものは何も無いからで、もし事業を起こし農村を活性させようと思っても、高利貸しから高い金利でお金を借りしかすべが無いのです。しかもその高利貸しも違法なので、取締りが厳しく、どこからもお金が回ってこないのが現状です。


5 税制の問題

農民の年間所得は平均で200米ドルちょっと位です。ここから更に8.4%の農業税が取られ、更に生活に必要な消費に17.00%の消費税がかかってきて、全体では20%以上の税金がかかっています。都市の人間は生活保障が有るので納得できる部分も有りますが、生活保障が全く無い農民にこれだけの税金がかかっている事は税の不均衡が大きすぎます。


以上のように農民は皆この都市市民との差別の中でもがき苦しんでいます。これでは娘を売って少しでも生活の足しにしようという農民が出てきてもおかしくないし、この苦しみから逃れるために身体を売ってでも都市での生活に憧れる農村小姐がいっぱいいるのも頷けます。


これからは社会不安がどんどん大きくなっていきそうです。外資の方々も大きな投資は控えた方が良いのかもしれません。どこで身を引くかという瀬戸際は楽しめますが、大火傷を負うほどの博打はやはり止めた方が良いかと思います。

最後の晩餐


飯を食うという作業には、生きるうえで最高の快楽であると思う。モノを口に入れ、消化して、排泄する。この単純な作業の中に、まず食事する雰囲気を身体で感じ取り、料理の形や色を目で楽しみ、匂いを鼻で楽しみ、そして口と舌で味と温度を楽しむ。場合によっては料理の音を耳で楽しむ事もある。更に食材のルーツや歴史に思いを馳せれば、記憶を掘り起こして知識を楽しむ事も出来る。


しかし恐ろしい事にこれが経済の発展と共に段々と飽食になり、何を食べても感じなくなる食欲不感症がやって来る。日本でも飽食の時代に入り、飯を食う事に不感症な人たちが多く、何を食べてもサプリメントを摂取しているような感覚で、供給する側は必死にあれこれ工夫するけれど、食する側は何の感動も無くただ口に運んでいるだけの場合が多いかと思う。


人間の欲は基本的に‘食欲’と‘色欲’の二つで成り立っているかと思う。欲望の中で一番強い食欲に飽きた人たちが向かう先は当然色欲である。この色欲を満たす為に風俗産業が発達する訳だが、風俗業の発展は経済発展のバロメーターと言える。


風俗業の発展の仕方も経済の発展度に合わせて進化する。


第一次発展期   衣食住に困らなくなった人たち

            本番が基本、単純にセックスのみを行い、

            射精することで満足する。

第二次発展期   衣食住が贅沢になった人たち

            本番のみならず、脳を刺激する淫靡さを必要とし、

            セックスそのものよりその刺激を得る事に満足する。

第三次発展期   衣食住が非常に贅沢になった人たち

            もはや通常の淫靡さでは満足できず、

            或る特殊な感覚の部分での行為に

            対してのみ満足する。


第一次発展期はそれまでの貧困から逃れ、少しずつ‘食欲’に飽きが出た時に始まる。貧困から逃れ、食べる事にも困らなくなったが、その余裕を使う先も限られている社会では、風俗業がその余裕の使い道として発展する。


第二次発展期は大多数の人たちが貧困という言葉を忘れ、社会全体が飽食になってきた時に始まる。風俗業も飽和状態になり、一部の人たちは‘色欲’にも飽きが出てきて、新たな刺激が無ければ満足できないようになり、風俗業も進化していく。


第三次発展期は社会が非常に高度な組織として管理され、何に対しても興味が湧かない状態まで行った時に始まる。もはや通常のセクシャルな事象には反応せず、それが死であったり、苦しみであったり、そういう部分で満足する。現代では多くの人はバーチャルな世界に逃げ込んでしまう。


例えば現在の中国は現在第一次から第二次への境目に入ってきたところであろうか。食には飽き、色に進み、それが進化していく途上にあるといえる。逆に過去の中国で起きた纏足という事象は、高度に進んだ社会における第三次発展期の出来事だと思う。


日本はまさに第二次から第三次への境目に入ってきたのだと思う。最近のいろいろな事件はバーチャルとリアルの区別がつかない人たちが起こしている事件ではないだろうか。


こう考えると暮らしが良くなる事の定義として、飽和を生み出す事が良いのかという疑問が湧き起こってくる。経済の理論としては飽和を生み出すサイクルのパイが大きくなればなるほど良いという感覚が残っているようだが、実際にバーチャルな世界で‘色欲’を満たすような社会が良いのかどうか私には分からない。


さて最後の晩餐であるが、もしあなたが死の間際に何でも好きな物を食べてくれと言われ、すらすらと答えが出てくるようなら、かなり正常な感覚を持っているかと思う。これが1時間考えても思いつかないようであれば、もう少し‘食欲’に貪欲になった方が良いかと思う。なにせ最高の快楽を忘れているのだから。

風来坊


全くもって一つの場所に落ち着けない性格だと我ながら感心する。あっちへ呼ばれればあっちへ行くし、こっちへ呼ばれればまたすぐに行ってしまう。この20年近く自分の家と呼べる場所は15ヶ所ほど有るし、それ以外にホテル生活は2000日を越えるような気がする。


仕事だからという理由は簡単に言えるけれど、ここまで来ると性格的なものが大きいような気がしてきて、結婚はしたし、子供もいるけど、家族というカテゴリーに属していた記憶が余りにも薄い。こんな人と結婚した女は不幸なのかもしれないが、今の所離婚している訳でも無く、子供も親という認識を持ってくれているようだ。


自分でも何が悪いのか分からないが、仕事で組織を持ち、従業員や客と過ごす時間が家族より長くなり、その仕事上の責任が家族より重くなってしまう瞬間が来ると、元々こういう性格上仕事を優先している振りをして風来坊を楽しんでいるのかもしれない。


今年もすでに移動距離は地球を二周はしているかと思う。今月はまた更に一周増える出張が待っている。地球は狭くなったと言うけれど、半日の商談の為に片道20時間も飛行機を乗り継いで行かねばならぬ事を思うと、やっぱり地球は大きいと感じてしまう。5日間の出張で丸3日間はホテルと空港と飛行機の中にいる事になる。


こんな生活をしているとまず時間の観念がなくなってしまう。勿論季節感も失われてきて、年を取る事自体忘れてしまう。自分の居場所は無いのだが、永遠に楽園を探している放浪者のような感じであろうか。


いつかは身体も頭も動かなくなる日が来るのは感じているが、好きなときに、好きなところへ行ける自由がある限りこの風来坊の生活は止められそうにない。勿論お金が付いてきての話ではあるが。


もし止まるとすればそれは楽園が見つかった時なのか、それとも身体も頭もストップした時なのかそれは分からないがいずれにしてもこの世にはいない様な気がする。

靖国参拝

もうすぐ終戦記念日、今回日本に帰った機会に靖国神社に行ってみる。平日にもかかわらず人出は結構ある。東京という所は至る所にこうゆう緑に囲まれたスペースが点在していて、しかもどの木も立派な枝振りでぶらぶらと歩いていても結構落ち着くものである。


しかしいつも思うのだが日本の歴史が持つ‘荘厳さ’はやはり日本人の私には一番心地よい、ものの作り方とその配置がとてもシンプルだけれどヨーロッパのそれとは違い実に重みを感じるデザインだといつも感心させられる。しかし外国人にとってはある種の威圧を感じてしまうかもしれないと思わせる節もある。


ここに来た理由はただ一つ、私が中国で生活する日本人として、自分が見たことを無いものを一方的に非難され、見ていないので一言も反論できない自分が情けないと感じた事である。私が中国と関わるようになってからでも今年沸き起こった反日の感情は、中国の自信の表れが半分、日本経済の強烈な中国進出を恐れる気持ちが半分、どちらにしても日本と中国の関係が転換期に来ている事だけは間違いないと思っていたが、その争点となる靖国神社だけは自分の感覚として理解できなかったからである。


今までよく中国の人達に日本人を説明する場合、「お正月は国民の半分以上が神社にお参りに行き、8月はほとんどの人が田舎のお寺にお墓参りをして、12月はクリスマス一色でサンタとクリスマスツリーだらけになるのです」と、事実ではあるが日本人の宗教観がぼやけるような発言をしていた。これはある意味自分の中でも何か宗教が天皇と結びつくような気がして、無意識の内に自分が無宗教者であるような防戦を張っていたのかもしれない。


そして今回行ってみた。靖国神社に。個人的には特に感銘を強く感じた訳でもなかったが、やはり感じたのは非常に優秀な人々が多く命を失われた事実である。歴史に‘もし’は無いが当時の優秀な青年将校などがもしこれほど命を落とす事が無ければ、今の日本はどんな国になっているのだろうとしみじみと亡くなられた方々の写真を見ながら感じてしまった。


今後もし靖国神社について中国人の方に聞かれたらどの様に言おうか考えて、結論としては「あなた一度靖国に行ってみたら、行ったことも無いのに批判するのはおかしいよ」って言おうかと思った。


帰りがけ遊就館の売店で意地悪な私は売っている物の中に‘中国製’が無いか探してみた。ブリキのおもちゃなど今や中国でもなかなか作っていないのに日本製とプリントしてあった。その他の木の細工物もすべて丁寧に日本製シールが張られていた。売り値は決して高くないのにすべて日本製とは頭が下がる思いであった。さすがに「T-シャツは」と見てみるとインドネシア製になっていた。意地でも‘中国製’は置かねえって意気込みを感じた。


漂流小姐

ずっとこの世界で漂流してきた小姐がいる。御歳28歳。数々の男遍歴も有りまさに女で在ることを武器に生きてきた凄みがある。特別綺麗と言う訳では無いのだが、彼女には彼女なりの男を転がすテクニックがあるのだと素直に認めてしまう。そして彼女はまさに現代中国の生み出した流される人生を体現している感じがする。

彼女には必要という言葉が存在しない。何をするにしてもそれが欲求によって生まれた行動ではなく、流れの中での行動に見えてしまう。たぶん自分の存在が何であり、何の為に存在しているのか明確な事は何一つ無く暮らしてきたのであろう。お金を稼ぐ手段は知っているが、何のために稼ぐかは分かっていないような気がする。

だから彼女の居場所はいつも安定しない。拠り所も見つからないままいつも新しい何かを探す振りをして漂っている。この国はいつもこういう漂流者の出現によって政権崩壊に進んできたのかもしれない。生きることに目的の無い人生を送る人間にとって、ほんの少しでも拠り所を与えてやれば、やがて止めることの出来ない大きな流れとなり、再生が始まる。

経済活動は数字ベースの話だけでは回らない。数字では現れない満足感が支えている面も大きいかと思う。彼女たち漂流者が多く出現してくる現象は、今後の中国の政策に大きな影響を与える可能性が有ると思う。

夫婦の肖像


御二組の夫婦、ともに革命の道を進まれた方々ですが、目指すモノの違いが目線でなんとなく伝わってきます。夫婦というのはある程度一つの共通の目標を持っていれば何とか上手くやっていけるものだと思うのですが、お互い純粋に人格を愛すればこそ家族生活も社会生活も楽しく過ごせるのではないでしょうか。革命という異常な状況下でも、普通に恋愛して、お互いを高めあう結婚と、権力(財力、名誉)に目がくらんで自己顕示欲の為にする結婚と、どちらが幸せかというとやはり前者の方ではないかと思います。


歴史的にはこの御二組の夫婦の末路は結果が出ていますが、それぞれのカップルの愛情関係はかなり違ったのではないかと想像できます。左のカップルは写真にも出ていますが同志的な師弟関係の感じが漂い、男のロマンに引かれてついつい身を捧げてしまった、もうこうなったらとことんこの男に付いて行くしかないでしょうっていう感じです。変わって右のカップルは本当に幸せそう。もともと金持ちのボンボンがそこそこ家柄の良い少女と出会い普通に結婚したっていう感じです。ただ男が革命家だったって言うだけで。


結婚というのは本当に難しいものだと思います。高めあう事、助け合う事、本当に上手く行く夫婦はお互いの人生の価値観が数倍にも膨らみますが、これがいったん逆方向に向かうと、毎日が憂鬱で、生きていく意味も分からなくなるほどマイナスの作用が生まれます。それがこの中国という国の国民にとって大きな不幸であったのは言うまでも有りませんが‥・。


おとーさんも自分の人生を振り返ってみてどうですか?幸せな結婚生活ですか?

時間と世代と遺伝子

週間文春の竹内久美子さんの『ズバリ、答えましょう』というコラムが有ります。毎回読者の素朴な疑問に生き物の習性や遺伝の解明であっと驚くような回答が新鮮でとても勉強になります。そこで私もふと考えたのですが、現在私が生存しているのは何万年もの先祖からの繋がりで生存しているのだと思うのですが、ある人の家の話を聞いていて、その方のお父さんは62歳でその方を生み、そのお爺さんは53歳でお父さんを生んだそうです。考えるに人間は性欲をある程度コントロールできる動物ですし、コントロールできるが故、何時でも発情できます。それがどれほど昔から可能になったかは分からないのですが通常考えられる30歳前後で子供を生んだ場合、その方の場合は普通の方より1世代飛び越えて生存していることになります。


もしこれを例えば2000年のスパンで考えたら、仮にある家系が常に25歳になって子供を生み、ある家系は30歳で子供を生むことを繰り返していけば、2000年後には、25歳出産ファミリーは80世代、30歳出産ファミリーは67世代で13世代もの違いが生まれてきます。単純に考えると遺伝子の伝達が13回分遅れる訳でして、これが現実の社会生活に影響を及ぼす事は無いかと考えた訳です。例えば昔は子沢山で一人が3人4人は当たり前に子供を生んでいた時代でも、最初の子は比較的若い時に生まれていても、最後の子はかなり年を取ってから生まれたりしています。そう考えると、4男の子の5男の子の3男の子の次男は長男の子の長男の子の長男の子の長男より1~2世代分遅く遺伝子の伝達がなされているはずです。

この地球上に生存している人間の最高の年齢が120歳とすれば、人類の生の記憶は最大で120年分しか無く、同じ実体験を経験できるのもこの120年という短いスパンでしかありません。そしてそれが切れ間無く続いて来た訳ですが、ある起点を設定すれば起点から何世代目の人間かは違いがはっきり出るはずです。とすればこれだけ外部環境が著しく変化していく中で、遺伝子の伝達回数も何らかの形で社会生活に影響を及ぼすのでしょうか。(対応能力の違いが生まれてくるなど、ただしこれは生活環境も同じ条件下での話)

竹内先生、世界には人間を対象にこんな研究をしている学者さんはいるのでしょうか。例えば3世代遺伝子の伝達が遅れた人は家電商品の扱いが遅いとか・・・。中国など共産主義社会は教育による国民の精神の均一化が欠かせませんが、歴史が長いだけにこんな遺伝子の伝達回数の問題も研究した方が良いのでは?