小姐的不夜城故事 -16ページ目

不夜城の緩み

最近中国では何かタガが外れたかの様に、SEX産業が急速に増殖中です。何か当局が重大な問題を抱えていてコントロールを失っているような感じがします。特にSARSの問題以降、急速にゆるんできたような気がします。

街中や住宅街にも不思議なぐらい怪しい理髪店やマッサージの店が増え、公安の規律がかなり緩んできているのではという感じがします。今の状態はこれまで見てきたなかでも、かなり危険な領域に入っていると感じます。公安の乱れはそのままあらゆる範囲に反映され、闇で少なくないお金が飛び交う様子が目に浮かびます。

現在の共産党の指導部には悲しいかなカリスマ性は感じられず、どちらかというと制服組になめられている感があります。特に軍部は巨大な企業を持ち合わせ、多方面でグローバルな商売をしていて、今の経済局面では軍事費も湯水のように使い放題、たいていのごり押しは通ってしまいそうです。

夜の店にも、軍隊系、武装警察系、公安系など、制服組みの系列があり、公安資本のホテルのサウナとか、軍隊ご用達の夜総会とか、武装警察公認の理髪店など、いろいろなバックボーンを持った店があります。こうした所は三すくみじゃないですが、お互い管轄外という事でお縄になることはまずありません。

ただし最近こういう店が増え続け、お互い利権争いを始めているのも事実で、今の内に指導部がハドメをかけないと、韓国のソウルのように街のいたるところが抜き理髪店になってしまいます。

それも自然の成り行きと、静観を決めるのも一つの手ですが、少なくとも国家の防衛と規律を守る組織が風俗産業にうつつを抜かしているのはどうかなーと考えてしまう今日この頃です。

小姐との付き合い方 (3)

マジ切れとーさん編

小姐がおとーさんを愛人だと認識している場合は、相当の注意が必要です。またプチマジからマジ切れに変わる際に、相手の小姐の事を良く調べ上げていないと、全てが上手くいかない場合があります。その為マジ切れしそうな時は、とにかく後々の事まで考えて行動してください。

HOW TO GET 小姐
マジ切れしそうなおと―さんはすでに家庭が崩壊寸前か、家庭以外でも何らかの相当なプレシャーを感じておられるか、逆にあまりにも安定しすぎた人生に疑問を感じておられる方々だと思います。そうゆうおと―さんは人生のリセットを念頭に小姐と付き合う訳ですから、これは遊びの範疇を超えてきます。マジ切れとーさんが上手く小姐と付き合うには、以下の事に注意してください。

まず小姐はこれから一緒に生活していく事を頭に置きながらおと―さんに数々の要求をしてきます。当然その要求範囲は当人同士の話だけでなく、親族一同も含めて全てのプレーヤーが登場してくるので、マジ切れする前に彼女の背景(実家の経済状況や親族関係)を細かく把握しておくが、かなり重要になってきます。小姐自身おとーさんと家族のどちらが大事かと言うと最終的には100%家族を取ります。ですから簡単に娘を売り渡すような親であれば逆に要注意で、反対する親ほど本当に娘の事を考えているといえます。(中国人の親が日本人のおやじに娘を嫁がせる事は基本的に日本人がお金に見えるからだと認識してください)愛は一瞬で覚めますが、家のローンは一生残りますから全てのプレーヤーの実情を把握した上で次のステップに進まなければおとーさんの一生も全てがパーになりかねません。

*まずお金に疎い小姐を見つける事が重要なポイントです。もともと向上心があるわけでもなく、なんとなくこの世界に飛び込んできた小姐や、新人の子を狙いましょう。但しこのような小姐をGETするには相当な中国語の能力が要求されますので、真剣に中国語を学びましょう。
*何が何でもモノにするという強い意志で接してください。彼女が日本語を学ぶと言えば喜んでお金を出しましょう。
*小姐がモノに出来た後は自分の経済的な背景を積極的に開示し、少なくても、家庭が崩壊した後にでも、彼女との普通の暮らしに影響が出ないように自らの経済状況も見つめなおしましょう。
*同棲など一緒に生活する事になった場合は、生活の費用を負担し彼女を完全に囲いましょう。その際、小姐の携帯電話の番号を変更させる事を忘れずに。
*囲われたあとの小姐はかなり暇です。まだ若いので、何でも挑戦させ、学校へ行く、または昼の会社で働かす、などさせ、数年後に仕事の内容が把握できれば、2人で独立して商売しようなどと言っておきやる気にさせましょう。
*やがて本当に将来の事を語る時がやってきます。小姐も自分達の将来に不安を感じながら生活しているので、将来設計を立ててやる事が大事になってきます。出来るだけ小姐の要望は聞き入れ、小姐の背景にさしたる問題が無い場合は、具体的に計画を立て、実行しましょう。
*もし別れる状況になった場合、これは突然日本に帰るなど、完全にフェードアウトするしかありません。小姐にもそれなりの財産を残してやらないと恨みだけが残ります。

第二の人生を歩むおと―さん達は、背負っているものも大きいですが概して皆さんほっとした表情の方が多いかと思います。一度の人生思い切って飛び出した方が楽になれるかもしれません。

小姐との付き合い方 (2)

プチマジとーさん編

小姐がおとーさんを少しだけ男だと認識している場合は、また対応が変わってきます。基本的に男と女のわがままは質が違い、おと―さんのわがままは通らなくなりますので心して付き合いましょう。小姐の方もお金の切れ目で割り切ってくれないので、ずるずると行くと、妊娠問題や、婚姻の危機にぶつかってしまいます。そこのところを十分注意して下さい。

HOW TO GET 小姐
プチマジとーさんが上手く小姐と付き合うには、以下の事に注意してください。

まず小姐はお金だけが目当てじゃありませんので、それ以外の要求もいろいろ増えてきます。基本的には愛情のおすそ分けが必要になってくると言う事です。お金はお金、愛情は愛情、と2段構えの要求が襲い掛かります、それがミックスされてくると、最悪の状況になりますので気をつけてください。

*最初から無理をせず、気に入った子にはとにかくこまめに店に通い小額のプレゼントを数回送るなど、心に訴える戦略で推してください。(アプローチは‘まめ’さがポイントです)
*現金は与えず、小姐が欲しいプレゼントを与えてください。(高価なものは正直にお金が無いと言いましょう)
*小姐は普通の中国人どうしの付き合いでも、男がお金を出すのが当然と思っています。細かいお金は自主的に出し、大きなお金はきちっと断りましょう。
*贈り物では花などの残らないものも有効です。小姐がこんなもの勿体無いと言いながら喜んでくれれば、すでに彼女もプチマジ状態です。
*まずは思い出作りから、近郊で構わないので旅行に行きましょう。旅行が無理なら、彼女の誕生日などに高級ホテルでお泊りなど、良い印象を与えておきましょう。
*やがて将来の事を語る時がやってきます。小姐も自分の将来に不安を感じながら生活しているので、その空白を埋めるのがおと―さんの存在です。但し家庭を壊してまでと考えているおと―さんはこの時が潮時だと悟りましょう。そんなときは子供の小さかった頃の顔でも思い出しながら、別れの決心をしましょう。
*別れは以下の言い訳が有効です。①子供の事を引き合いに出しましょう。子供の事を考えると離婚は出来ないなど(プチマジとーさんの場合でも小姐は子供の事が出ると身を引く事が多いです。但し小姐を中絶させた場合は逆効果です)②日本に帰る事になった、もしくはもう中国に出張に来られないのでしばらくは会えないといい、そのままフェードアウトしましょう。(携帯電話の番号を変更する事を忘れずに)

中国で忘れかけた青春時代を思い出して、小姐と付き合うおとーさんも多いかと思います。ただ不倫が発覚すれば失うものも大きいので、終焉の仕方を常に考えながら付き合って下さい。しかも女性はちょっとしたニューアンスで男の心の変化を嗅ぎ付けます。普段から平気で白を切り通せる訓練も欠かせません。

小姐との付き合い方 (1)

中国と日本では男女関係に大きな考え方の違いがあります。その点注意しないと亀裂が生まれます。特に恋愛ゲームを楽しもうとお考えのおと―さんはこの感覚の違いでケンカになる事も多いので、気をつけてください。

特に大きな違いは金銭に関する感覚の違いです。

金づるとーさん編

小姐がおとーさんを金づるだと認識している場合は、非常に楽に対応できます。札でほっぺを叩ける間は、基本的におと―さんのわがままが通るので余計な事は考えずに付き合いましょう。小姐の方も金の切れ目が縁の切れ目と割り切っている場合が多いので、おとーさんもそのつもりでお付き合いしましょう。特に出張者の場合は最初から金づると思われているケースが多いので、財布の紐を堅くして付き合いを始めましょう。

HOW TO GET 小姐
金づるとーさんが都合よく小姐と付き合うには、以下の事に注意してください。

まず小姐はお金が目当てなので、お金の為には多少のわがままは聞き入れてくれます。その為には最初のお金の使い方がポイントになってきます。

*最初のプレゼントは豪華に決めてください。(アプローチはやはりお金にモノを言わせた方が良いかと思います)
*現金は毎回与えず、安くても中国で無いようなプレゼントを与えてください。(好奇心を引くもの)
*現金を渡す時は、財布と相談しながら、自分が納得の行く金額(Hの回数でもいいですし、アテンドしてもらった回数でもOK)を計算してから渡してください。
*細かいお金(コンビ二で使うお金、タクシー代など)は小姐に出してもらってください。(日本人はただでさえケチだと思われていますが、そう思われていた方が後々楽になります。)
*5回に1回ぐらいは豪華な食事に連れて行ってあげてください。
*TOTALで小姐に使う予定金額をきちんと決めて、予算オーバーしないように心がけてください。
*無謀な要求はきちんと前向きに聞いてあげてください。がしかし、前向きに検討しますと言っておいてお茶を濁してください。
*別れは以下の言い訳が有効です。①奥さんに関係がばれた(金づるとーさんの場合はこれで大概小姐が身を引きます)②日本に帰る事になった、もしくはもう中国に出張に来られない(最後に豪華プレゼントをせがまれますが無視してください)③失職したもしくは会社が倒産した(金づるとーさんにお金が無いとすぐにはなれていきます)これを豪華な食事に誘いながらいうとたいていの小姐とは円満にお別れできます。
*遊びで神経をすり減らすほど馬鹿な事はありません。自分の出来る範囲で楽しく過ごす方法を考えてください。

中国で一時の恋愛ゲームを楽しみたい方は自ら金づるとーさんになる事を自覚して楽しんでください。決して深みに嵌らないようくれぐれも注意してください。

思い出の小姐 (4)

海外出張中の為、更新できず申し訳ありませんでした。毎回アクセスして頂いている皆様、いつもありがとうございます。これからも日々中国の不夜城と小姐の物語を書いていきたいと思います。また何かご意見等ございましたら、

china-neversleepcity@hotmail.comまでメールして下さい
宜しくお願い致します。

さて今日は思い出の小姐と言うか、いつも店の前で付きまとう花売り娘のお話です。その子はもう6年前から夜の街に出没していて、当時まだ小学校の4年生ぐらいの年だと思いましたが、バラの花を1輪10元で売る事で生活の糧にしていました。出合った時にはすでに片言の日本語を操り、相当頭の良い子だと思いましたが、2~3年するとほとんど日本語を操るまでになっていました。最初は花を買ってもしょうがないので10元を渡していると花を受け取らないと親方に怒られるからと、無理にでも渡そうとしましたが、そのうちに私の姿を見つけるとうれしそうに寄ってきて10元札を受け取るようになりました。

それからいろいろ彼女と喋るようになったのですが、湖南省の出身で5歳の時親方に預けられ(売られたと言ったほうが正しいかも)それからいろいろな所で物乞いから始まり(物乞いは2,3歳からせいぜい6~7歳まで)その後は花売りとして頑張ってきました。1日のノルマは50元らしいのですが、それだけの売上はなかなか取れません。たぶん本人は戸籍も無く、学校へも行けない事を十分理解しているらしく、健気にたくましく生きる姿には感動すら覚えます。彼女のような頭の良い子なら、学校へ行けば間違いなくトップの成績で卒業できるのにと思ってしまいます。

その後彼女も高校生の歳になり、いつしか夜の街での花売り姿を見なくなりました。今はどこでどうしているのか気になるところです。

社会と言うのはいつの世も不公平に出来ています。それでも人間は制度や法律に関係なく強く生きて行くのです。



思い出の小姐 (3)

以前売春容疑で捕まった小姐の話はしましたが、彼女は私にとっても特別思い出深い小姐です。彼女とはあるクラブで知り合ったのですが、その後しばらくは店には行かず、個人的に付き合いをしていました。私がその街へ行くと電話して必ず会って食事して、ホテルに呼んでました。

そんな付き合いが3年ぐらい続いたある日、彼女の電話が突然つながらなくなり、心配になって何度も何度も電話をかけ続けたのですが電話はつながる事はなく、私の方は、勝手に田舎に帰って結婚でもしたのかなと思っていました。 そして9ヶ月の月日が流れたある日の朝、多分8時頃だったと思うのですが、突然の携帯の電話がなり始め、昨晩遅くまで飲んでいた私は完全に寝ぼけた状態で電話を取りました。

我 「もしもし」
小姐「私、分かる?」
我 「だれ?」
小姐「忘れた?長い間連絡してなかったから」
我 「あ、朱玲!(仮名)」
我 「どうしたの、長い間行方不明で心配したよ」
小姐「私事情があって連絡取れなかったの、ごめんね」
小姐「良かった中国に居てくれて、ね、今日会える?」
我 「えー今日、今日は分からないから、明日、明日でどう?」
小姐「分かった、じゃ明日あってね」
我 「OK、じゃ明日」

その時寝起きで別にその日に会っても良かったのですが、突然すぎてビックリし、つい明日ということにしてしまいました。 そして次の日、いつも2人で行っていたレストランで会いました。最初にレストランに入って、彼女を探しましたが、なかなか見つかりません。奥の方で一人で座っているショートヘアーの女性がいて、あまりの質素な感じでまさかとは思いましたが、その女性に近づいていくと、

我 「あっ朱玲!」
小姐「お久しぶり」

これまたビックリ、ショートヘアーで化粧もしていない彼女は、まるで別人のようでした。

我 「どうしてたの?」
小姐「私実は刑務所に入ってたの」
我 「!!!!」
我 「何で捕まったん」
小姐「友達の店に遊びに行って、そこで公安の手入れがあって、有無も言わさず警察に連れて行かれて、そのまま家族にも連絡取れずに、刑務所に入れられたの」
我 「ウソー」

それから彼女は堰を切ったように、この9ヶ月間の話を始めました。いわくこうゆう容疑で捕まると、外部との連絡を一切させてくれず、彼女は3ヵ月後にやっと両親に手紙を出せて、それで初めて彼女の両親も刑務所に入っているのが分かったというしだいです。さらにこの容疑で捕まるとまず性病の検査を受け、その結果性病だと刑期1年、性病で無いと刑期9ヶ月になるそうで、彼女は性病にかかってないので刑期9ヶ月になったとの事です。その後は刑務労働でミシンを朝から夜中まで踏んでいて話とか(有名百貨店で彼女の作ったものを売っているらしい)、食事は賞味期限切れのインスタントラーメンばかりでしかもねずみがかじった後があるとかいろんな話を面白おかしく話してくれました。しかし一番困ったのは、そうゆう容疑で捕まったいるのは若い女性ばかりなので、行き場のない性欲のはけ口が、レズ行為を求められたり、自慰行為をする声で、夜中眠れなかったり、そちらの方がつらかったと笑っていました。

しかし私が一番感激したのは、その彼女が、刑務所から出所した朝、一番最初に私に電話して来てくれた事です。それも私の電話番号を暗記していて、真っ先に電話してきたのです。私はなんとも言えない気持ちになり、その晩彼女をやさしく抱きしめました。私に何がして上げれるのか一生懸命考えましたが、彼女には今はただ優しく抱きしめてあげるのが一番だと思い、朝まで抱きしめていました。

翌朝、その彼女は何も言わずただ「ありがとう」と一言いって離れていきました。私もただ「いつでも連絡してくれ」といって分かれました。 それから田舎に帰ってまた10ヵ月後彼女は帰ってくるのですが、田舎でもごたごたして、居づらくなり戻ってきたのです。その時、私も彼女も確かにほのかな恋愛感情がありました。しかしお互いどうにもならない切ない気持ちで、またずるずると関係だけが続きました。しかし最後に彼女は離れていきました。

いろんな意味で男女の切なさを知った関係でした。

ただ幸せになって欲しい

それだけが今の私の切なる願いです。

思い出の小姐  (2)

今から10年以上前、内モンゴルのフフホトの街ではまともなホテルと言えば内蒙古飯店と昭君大酒店ぐらいで、ホテルの中にはショーを見る夜総会のようなものがありましたが、街に出ると舞庁(ダンスホールの類、今は本当に見なくなりました)がちらほらあるような状態でした。フフホトは白酒をしこたま飲まされた苦い経験があるのですが、ここでも夜は食事の後に現地の取引先に誘われ舞庁に繰り出しました。

そこには一緒に踊ってくれる小姐(舞伴)が何人か待機していて、100元ほどのチップで一緒に話をしたり踊ってくれたりしました。そこで知り合った小姐はモンゴル族の小姐で、豊満なボディーをしていました。その晩はとりあえずホテルに帰ったのですが、明日また来るよと言って分かれました。

そして翌日もう一度その店に行き、一緒に草原観光に行こうと持ちかけ了解を取り付け、次の日朝からタクシーをチャーターして草原観光に出かけました。フフホトから少し離れると一面の草原で、観光地には約三時間ほどで到着し、それから日中は馬に乗ったりして過ごし、晩は観光客皆でキャンプファイアーなどで踊ったりして盛り上がり、私も日本語で歌を歌ったりして楽しく過ごしました。

さて宴も終わり、観光客は皆それぞれのパオ(モンゴルのテント)に戻っていき、我々も自分達のパオに戻りました。その時はかなり白酒を飲んでいて、意識も朦朧としていて、すぐに寝転がって寝てしまいました。そしてその後、夜中になぜか目が覚めてしまいました。ふと隣を見ると小姐がすやすやと眠っていていましたが、その大自然に男と女が居る事に異常に興奮を覚えてしまい、つい小姐を起して事を始めてしまいました。

その晩の興奮は今でも忘れられません。一体何回、何時間してたのか解らないほどお互い貪りあいました。そしてお互い体力の極限まで来て、小姐の方は眠りにつきました。しかし私は大草原の真ん中で赤裸な男女が抱き合いながら寝ている、そう考えただけで興奮してなかなか眠れませんでした。

そしてしばらくまどろんでいると周囲が明るくなり始めているのに気付きました。そして服を着てパオの外に出てみると、ちょうど太陽が昇り始めているところでした。その光景は、その美しさは今でもはっきりと覚えています、雲一つ無い空に満天の星が輝き、その星の輝きを少しずつフェードアウトさせながらオレンジ色の太陽が昇っていく様はこの世のものとは思えないほど美しい光景でした。

Hと環境がこれほど関係の深いものとはその時初めて知りました。それはまさに人間というより、動物の雄と雌が自然に行う行為のなにものでもありませんでした。

という訳でこのモンゴル族の小姐は思い出の一人です。

思い出の小姐 (1)

もう15年近く前の話ですが、都市部でそろそろ怪しい店がぽつぽつと出来初めて来た頃(その当時はディスコとか喫茶店、床屋などでしたが)、よく出張で田舎へ行ってました。出張で田舎へ行っても、飯屋も夜7時には閉まってしまう時代だったので、宿泊していた招待所で日本鬼のテレビを見ている毎日で、夜は10時には寝ていました。

そんな中、取引先の中国人がよっぽど見かねたのかちょっと私に付いて来て下さいと言われ一軒の農家の家に連れて行かれました。家の入り口をくぐると土間になっていて、裸電球の下に食卓が置かれ、おばーさん、おじーさん、おかーさんと娘2人がご飯を食べていて、その取引先の人間がおかーさんになにやらごにゃごにゃと耳打ちしたかと思うと、娘2人がいきなり立ち上がりこちらを向きました。一人は痩せた小姐、一人はぽっちゃりした小姐で、恥ずかしそうに下を向いて黙っていました。

そして取引先の中国人がいきなり、どちらか選んでくださいと言い、初めて理解できました。ああこの家は娘を売ってるんだと。それは当時まだ若かった私には衝撃的でした。中国の田舎にもこんな所があるんだと。田舎の出張では半ばあきらめていたのですが、いきなり農家に案内されてここでやれと言われるとたじろいでしまいました。 それでも案内してくれた中国人の面子を考え、私は痩せた方の小姐を選びました。

その後その小姐に奥の部屋を案内されました。そこは彼女の部屋のようでした。やはり土間に裸電球1つ、パイプベッドが1つ置いてありました。本当に何も置いてない質素な部屋でした。小姐はちょっと待っててねと部屋を出て行き、5分後、ホーローの洗面器、魔法瓶、使い古したタオルを持って現れました。

そしてベットに座っていた私にどこから来たのか尋ね、思わず東の方から来たと答えました。日中戦争時代このあたりまでは日本兵が進軍してきてて、商売の話をしていてもちらちら言われる経験があったので、日本人と言えませんでした。

その後ズボンを脱いでと言われ、ズボンとパンツを脱ぐと、小姐もスカートとパンツを脱ぎ、洗面器にお湯を注いでタオルを湿らせ、それで私のあそこを丁寧に拭い、小姐もベットの上でうんこ座りしながらあそこを拭いました。そして仰向けに寝ている私の上から、おもむろに跨いで来て、半立ちの愚息を握ると、いきなり生で小妹に埋没させてスクワットを始めました。

その時、私の方は結構冷静で、小姐にとってこの騎上位スクワットが、Hの全てなんだろうなぁとか、あんあんと言い出した小姐をよそにいろいろ考えていました。そして10分たってもいかない私に疲れだした小姐に、私が上になってもいいかと尋ね、疲れてきた小姐はコクっと頷きました。

ここで攻守交替して私の方が主導を握ると、彼女の声は一段と高鳴り、私の方も昇天しました。その後先ほどのタオルできれいに拭き取ってもらい、Hは終了しました。小姐は上に乗られたり、触られたりした事自体初めてだったようで、彼女にとってもかなり衝撃的な体験だったようです。

その後お互い服を着てベットの上でいろいろ会話をしました。彼女は昼間は地元の靴下工場で働き、月収は150元ほど、この家の娘と思っていたが、実は彼女はもっと奥地の農家から出稼ぎに来ていて、この家で生活させてもらっていて、強要はされていないが、この家の人間に売春を勧められ、お金のために始めたとの事でした。 料金は当時で100元、その農家に渡し、多分彼女は半分の50元が手元に残ったと思いますが、50元は彼女の10日間の労働賃金ですから彼女にとってすごい金額だったと思います。

この田舎での体験は今でも忘れることが出来ません。その後この田舎もかなり開発が進み、カラオケ、サウナなどが建設され、ある意味田舎の方が、都会よりも開放されてきたのですが、この出来事は本当に中国不夜城化の幕開けだったと思います。

ヤリ手小姐とのんきなおとーさん

先日行ったクラブでの小姐の相談

小姐「私現金で100万元ほど持ってんねんけど、何かええ商売ないかな」
我 「ひゃ、ヒャ、百万元!!」

あまりの金額にソファーから滑り落ちてしまいました。

我 「ひゃ、百万元もどないしたんや?銀行にでも押し入ったんか?」
小姐「うんん、マンション売れて入ってきてん」

以前マンションを30万元で購入した事は知っていたが(頭金と内装で10万元ほど使ったらしい、後は銀行のローン)それを売っても100万元にはなろうはずも無く、宝くじでも当てたか、おとーさんを転がしたか、どちらかしか考えられなかったのですが、それでも思わず、

我 「どないしたんやその金、なんか悪い事したんか?まあええ、そんだけ金持ってんねやったら、おっちゃん飼うてえな。」

と言ってる自分も自分ですが、

小姐「あほな事いいな、私な、あんたに言うてへんかったけど、もう1軒頭金 借金してマンション買うててん。それがあんたマンション立つ前に2.5倍で売れて、今金持ってんのやんか。」

この小姐とは知り合って3年、知り合った当初は日本語もロクに喋れず、まだ不夜城に着たばかりだった子が、3年でここまでのし上がるとは、開いた口が塞がりませんでした。私はこの小姐となんとなく気が合い、彼女の勉強熱心には感心させられ、たいした奴だとは思っていたのですが、それにしても今の中国のバブルぶりを見せ付けられました。彼女が手持ちの金を使ったのは最初に買ったマンションの10万元のみ、それを担保に知り合いから30万元の金を借り、当時100万元のマンションを購入、それが約1年で2.5倍に跳ね上がり、250万元で売れたとの事です。それで借金は全て返済して、前のマンション(こちらも今の価値は60万元以上)とキャッシュで100万元が手元に残ったとの事です。

本当にこうゆう話を聞くと、お店でチップを渡している自分が嫌になる時があります。この3年間のほほんと過ごして来た間に、彼女は一財産を築いていたのです。しかしこの小姐の経済感覚には驚きました。彼女は毎週不動産関係の雑誌を読み漁り、建設予定の現場まで足を運び、ここぞと言う時に大胆に借金をしてまでマンションを購入したのです。3年前まだ彼女が田舎でレストランの服務員をしていたとき、月2回の休みで朝から晩まで14時間働いて月収は250元だったそうです。年収にして3,000元までの彼女が3年でしかも自らの力で、当時の年収の500倍以上にもなる資産を得るに至った訳ですからたいしたものです。

しかもきちんと世の中の状況を把握して、売り時を見計らい、今回売却しています。

我 「なんでマンション売ったん?ひょっとしたらまだ上がるかもしれんで」
小姐「今度人民元の切り上げあるかもしれんやろ、今は期待感で外人さんが よーけ投資してるみたいやけど、ほんまに切り上げたら売るに売られへん ようになるで。なんせ現金掴まな儲けたってゆえへんやろ。売値が上がっ ても買う奴がおらなんだら金無いのと一緒やがな。」
我 (こいつバブルの仕組み分かっとるやないか・・・・)
我 「株とかはやらへんのか?」
小姐「株みたいな相場張るやつは、私の性にあわへんねん。だいたい株は金持 ちがするもんやろ。下手に手だしたら、いかれころや。」
我 (おまえ十分持っとるやないか・・・・)
小姐「私はなぁ、この小金で商売でもして、こつこつ金を貯めていくんや」
我 (小金ってあんた、どこまで稼ぐつもりなんや・・・・)

彼女いわく、こんな小姐はごろごろしているそうです。中には資産1億円以上の子もかなりいるそうです。ちなみに彼女の年齢は御年24歳、今後彼女の人生はどうなっていくのでしょう。運転手ぐらいで雇ってくれるでしょうか・・

おとーさんたちのチップがこんなに大きく育つなんて。なんて素敵な街なんでしょう不夜城って所は。

我 (ほんま怖い所や不夜城は・・・・)

小姐の吃苦

吃苦はまさに苦労を食べてしまう事が転じて、苦しみに耐えるという意味です。「我能吃苦」と言えば私は苦労に耐える事が出来ますという事になります。このほかにも命苦と言うのもありますが、命苦の方はいのちが苦しいが転じて不幸という意味になります。

小姐たちの故事(ものがたり)を聞いていると、もしそれが祖父母の代から始まると、壮大な物語になり、店で2時間や3時間座って終わるような話ではありません。ちょうど20歳から30歳ぐらいの小姐の両親の年齢は40歳半ばから60歳ぐらいで、第二次世界大戦直後から、内戦、解放、大躍進の時代に生まれています。その上の世代、祖父母の時代は1920年代から30年代の生まれで、五四運動から満州事変、中国全土で戦火の嵐が吹き荒れた時代に生まれています。

両親の世代でいうと、ものごころが付いた時期に大躍進があり、共産主義を手探りで運営していた時期なので、失策の中で飢饉などが発生して食うにも困る時代があったり、中高生、もしくは大学時代に文化大革命を経験してたり、この世代は今の中国を政治的にも、経済的にも支えている世代ですが、革命経験者ではなく、解放後の中国で初期の動乱期に強烈な原体験を持っているので、基本的には苦労した少年期、青年期をばねにして今の開放改革経済発展を支えている人たちです。

日本の団塊世代と少し違うのは、日本は戦後の復興も恐ろしく早く、その後経済的にも順調に発展し、一時は学生運動のようなものがあったけれど、国自体がおかしくなるような政治運動にはつながらず、一部の人たちだけで終わってしまったので、基本的には「我能吃苦」と言えるだけの苦労をせず過ごして来ています。

その団塊ジュニアになると(まさに中国の小姐たちと同世代ですが)基本的に豊かな生活が保障され、自由で高度な教育を受け、世界的にも幸福の絶頂のような環境で育ってきています。団塊父母からは苦労した体験を聞けず、祖父母とは離れて暮らしている団塊ジュニアにとって中国の小姐との精神的なギャップはかなりあるかと思います。

今の小姐たちの世代からすれば、彼女たちの両親や祖父母の世代は考えられないような苦労の連続ですが、彼女たちも小さい時から直接いろいろな苦労話を聞いていて、自分たちがいかに幸せな時代に生まれ育ったかをよく理解しています。

小姐たちが言う吃苦にはそうした先人の苦労を分かっている上で発しているのでかなり重みがあると思います。きっと団塊世代のおと―さんが不夜城の小姐にはまるのも、日本のキャバクラ嬢などでは通じない、人としての重みを彼女たちに感じ取り、同士のような感覚が生まれるもの一つの原因ではと思います。